マルタ・アルゲリッチ プロフィール

マルタ・アルゲリッチ
ブエノスアイレスの中産階級に生まれた。父フワン・マヌエル・アルゲリッチは、経済学教授や会計士を務め、その祖先は18世紀にスペインのカタロニア地方からアルゼンチンへ移住しており、「アルゲリッチ」はカタロニア由来の姓である。母フワニータ(旧姓ヘラー)は、ベラルーシからのユダヤ系移民の二世だが、ユダヤ教からプロテスタントに改宗していた。
保育園時代に同じ組の男の子から「どうせピアノは弾けないよね」と挑発された際、やすやすと弾きこなしたことがきっかけで才能を見出され、2歳8ヶ月からピアノを弾き始める。
5歳の時にアルゼンチンの名教師ヴィンチェンツォ・スカラムッツァにピアノを学び始める。
1949年(8歳)、公開の場でベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15を演奏した。
翌1950年(9歳)にはモーツァルトのピアノ協奏曲ニ短調K466とバッハのフランス組曲ト長調BWV816を演奏した。
ブエノスアイレス知事のサベテという人物がマルタの熱烈なファンだったため、1954年8月13日、サベテの仲立ちにより大統領府でアルゲリッチ親子と会ったフアン・ペロン大統領は、マルタに留学希望の有無を尋ね、「フリードリヒ・グルダに習いたい」との申し出に従って、アルゲリッチの父を外交官に、母を大使館職員にそれぞれ任命し、1955年初頭から一家でウィーンに赴任させた。
これに伴って家族とともにオーストリアに移住したアルゲリッチは、ウィーンとザルツブルクで2年間グルダに師事した後、ジュネーヴでマガロフ、マドレーヌ・リパッティ(ディヌ・リパッティ夫人)、イタリアでミケランジェリ、ブリュッセルでアスケナーゼに師事した。
10代を過ごしたウィーン時代に、プエルトリコ出身の「最高にハンサムな男の子」を相手に処女を喪失したと自ら発言している。
1957年、ブゾーニ国際ピアノコンクール優勝。
またジュネーブ国際音楽コンクールの女性ピアニストの部門においても優勝し、第一線のピアニストとして認められるものの、更にその後も研鑽を続ける。
1959年には、ブルーノ・ザイドルフォーファーのマスタークラスを数回受講している。
アルゲリッチは絶対音感の持ち主ではなく、調性を正しく認識していないこともあり、聴衆の一人から「ト長調の前奏曲」の演奏を褒められても自分が弾いた曲のどれを褒められたのか判らず、考え込んだことがある。
1960年、ドイツ・グラモフォンからデビューレコードをリリースする。22歳の時、中国系スイス人の作曲家で指揮者のロバート・チェン(陳亮声)と最初の結婚をするが、1964年、長女リダの出産前に離婚。
1965年、ショパン国際ピアノコンクールで優勝し、最優秀マズルカ演奏者に贈られるポーランド放送局賞(マズルカ賞)も受賞した[注釈。
1969年、1957年に出会った指揮者のシャルル・デュトワと結婚(2度目)、後にデュトワとの間に娘が出来る。
1970年1月、万博の年の幕開けに初来日。
浜松市などの諸都市でリサイタルを開く。当時は、「アルゲリッヒ」と表記されていた。
1973年頃の2度目の来日の際に飛行機の中で夫婦喧嘩となり、アルゲリッチは日本の地を踏まずUターンし、離婚。
後に、ピアニストのスティーヴン・コヴァセヴィチと3度目の結婚。
ソロやピアノ協奏曲の演奏を数多くこなすが、1983年頃からソロ・リサイタルを行わないようになり、室内楽に傾倒していく。 ヴァイオリニストのギドン・クレーメル、イヴリー・ギトリス、ルッジェーロ・リッチ、チェリストのロストロポーヴィチ、マイスキーなど世界第一級の弦楽奏者との演奏も歴史的価値を認められている。
1990年代後半からは、自身の名を冠した音楽祭やコンクールを開催し、若手の育成にも力を入れている。
1998年から別府アルゲリッチ音楽祭、1999年からブエノスアイレスにてマルタ・アルゲリッチ国際ピアノコンクール、2001年からブエノスアイレス-マルタ・アルゲリッチ音楽祭、2002年からルガーノにてマルタ・アルゲリッチ・プロジェクトを開催している。
(Wikipediaより転載)

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