渡辺茂夫 プロフィール

渡辺茂夫
1941年、東京生まれ。
音楽家一家に生まれ、生母・鈴木満枝はヴァイオリニスト。
4歳より、母方の叔父の渡辺季彦が経営する音楽教室でヴァイオリンを学び始め、その翌年、両親の離婚にともない、そのまま渡辺家の養子となった。
1948年(7歳)で芝白金小学校に入学し、早くもこの年に、巌本真理に音楽的才能を絶賛され、12月に最初のリサイタルを、翌年以降も毎年1回の定例コンサートを行った。
また、1949年にはヴァイオリンを弾く少年役として映画「異国の丘」に出演した。
この頃、創作面にも関心を示し、音楽理論を石桁真礼生に師事しながら作曲活動や詩作にも着手し、小学校の最終年次にヴァイオリン協奏曲、オペラ、ヴァイオリン・ソナタを作曲し、その作品はクラウス・プリングスハイムによって高く評価された。
1954年(13歳)に暁星中学校に進学し、同年、イギリスの名指揮者マルコム・サージェントの指揮により、東京交響楽団とチャイコフスキーの協奏曲を演奏した。
来日したダヴィッド・オイストラフを訪ねて演奏を行い、5月、渡辺季彦の奔走により、帝国ホテルにおいて、来日中のヤッシャ・ハイフェッツに面会し、演奏を披露、ハイフェッツに深い感銘を与え「百年に一人の天才と評された。
6月にハイフェッツからの招待を得て、両親に促されて渡米が決まり、1955年3月、ジュリアード音楽院院長より、「ハイフェッツ氏の熱心な推薦により」無試験入学が許可された。
各方面の支援者(アメリカ軍属、朝日新聞社、その他の個人)から経済的援助を受け、期限は2年間、演奏旅行には連れ出さないとの条件により、7月に飛行機で渡米した。
(14歳)カリフォルニア州で語学研修を受けるかたわら、奨学金を得て地元の夏季音楽講習会にも参加。
早くも天才ぶりと品のよい物腰から脚光を浴び、とりわけハンガリー人ピアニストのジェルジ・シャンドールに目をかけられた。
8月末にはモーリス・アブラヴァネルの指揮でベートーヴェンの協奏曲を演奏して、サンタバーバラ市の地元紙で絶賛された。
講習会の告別演奏会にも出席して、自作のヴァイオリン・ソナタを披露し、9月にニューヨークに到着し、ジュリアード音楽院でペルシャ出身のヴァイオリニストイワン・ガラミアンに師事することが決定。
日系人の家庭にホームステイを始めますが、後にガラミアン宅に同居した。
1956年(15歳)からニューリンカーンのハイスクールに通学。
この頃から日本への連絡が途絶えがちになる(一説には、日本や日本語に対する嫌悪感があらわれたと言われる)。
職業音楽家を集めたプライベートの演奏会において、ハイフェッツの伴奏者として知られるエマヌエル・ベイのピアノにより、ブラームスのヴァイオリン・ソナタ、ヴィエニャエフスキの≪協奏曲 第1番≫を演奏。
出席者には、レナード・バーンスタイン、ピアティゴルスキー、レナード・ローズらの顔ぶれがあり、ハイフェッツのお気に入りの指揮者アルフレッド・ウォーレンスタインからは、世界一の演奏家になるとのお墨付きを得た。
新学期の9月には、ジュリアード音楽院で史上最年少の奨学生に選ばれ、さらに半額と規定されていた奨学金も全額支給される。 秋にガラミアン教授宅を出て、ホームステイ先を変更。
すでにガラミアンと折り合いが合わなくなっていた。
1957年2月、情緒不安定を訴え精神科に通院。春にふたたびホームステイ先を変更する。
4月より助手としてジュリアード音楽院に残り、研究のかたわら治療を続ける。夏のヴァカンスでカリフォルニア州に行き、恩人ハイフェッツを訪ね、激賞された。
9月にジュリアード音楽院に再入学するが、乏しい報酬と心もとない支援金により耐久生活を余儀なくされており、劣悪な住環境しか見つからなかった(身元引受先のジャパン・ソサエティーによる配給額が適切でなかったためとされる)。
異国の地で人間嫌いと疎外感がつのるようになり、自殺願望をほのめかすようにもなると、両親は茂夫の急変を察知。
ジャパン・ソサエティに緊急帰国を要請するも、同協会は茂夫の治療優先の方針を崩さなかった。
ついに11月2日、茂夫は未成年が購入禁止とされているはずの睡眠薬を大量に服用する。
11月5日に日本の家族に危篤を告げる電報が届いた。
一命はとりとめたものの、不幸にも脳障害が残り、回復する見込みはなかった。
翌年1月、家族の要請により日本に送還され、その後四十年以上に渡って在宅療養を続けた。
1988年、父・季彦の門下生など関係者の尽力によって、かつての茂夫の演奏・肉声を収録したCD3枚組が自主制作・頒布された。
そして1996年、前述のCDを2枚組にまとめた「神童 <幻のヴァイオリニスト>」が東芝EMIから発売された。これが大きな反響を呼び、「驚きももの木20世紀」など複数のドキュメンタリー番組が制作され、その悲劇的な人生と(放送当時の)半ば植物状態の姿が紹介された。
1999年8月15日に急性呼吸不全により58歳で永眠した。
(Wikipediaより転載)

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